内省

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久しぶりに通院に行った。諸事情があって、2月以来病院に行けてなかった。行けてなかった、という書き方もおかしいけど。行こうとする勇気がなかった…とも言える。とにかく色々な事情が複雑に絡み合って、こういう状態を作り出してしまっていた。良くない、と頭で分かっていたのだけど…。2月のときも同じことを思っていたのに、ダメだなあ、と思う。

久しぶりに行った京都は、緊張で風景が全く目に入ってこなかった。豪雨をもたらす雨雲が京都を覆っていて、いつもと風景が違ったこともあると思うけれど、しばらく行ってないとこういうことになるのか… という感じだった。懐かしさを感じない。今までは、京都に行くと必ず懐かしさを感じていたのに、これは、どういうことだ?と思った。記憶が薄れてしまったのだろうか、と不安になった。

病院に着く前にちょっとしたハプニングがあり、それをきっかけに緊張が高まってしまって、そのまま病院に行った結果、診察中に発作を起こすという前代未聞の事態が起きた。この症状を理解してくれているお医者さんが目の前にいるのだから大丈夫、という自己暗示もむなしく、緊張に負けて発作が出た。少し落ち着いてきたかな、と思ったら、またぶり返し始めたので、挙手して「あの、すみません、ちょっと発作が…」と言ったら、診察を早めに終わらせるようにしていただいた。

終わったあと、今までにないような虚しさと、悔しさと、不安と、色々な感情が入り乱れて、しばらくなにも話せなかった。こういう状態にしているのは自分だ、という気持ちと、こういう状態を続けたくない、という気持ちが交互にやってきた。

こんな状態をずっと続けたくない、と思う。病気と向き合うのは辛いけれど、向き合うのをやめてしまったからと言って治るわけじゃない。その時は楽だけど、今日みたいに必ずしっぺ返しが来て、結局過去の自分を恨む。実際、ちょっと恨んでいる。でも今あるのは、リベンジしたい、という気持ちだ。今度病院に行ったときは、今日みたいな状態になりたくない。だから、病院に行く。

結果的には、喝を入れられたような気分になった。頑張るのは辛いけれど、頑張らないと治らないんだから仕方がない。散々同じことを思ってきたけれど、今日は心の底からそれを実感した。ただ、頑張りすぎるんじゃなくて、自分のペースで、ということだけは、肝に銘じておきたい。なんかみっともないようなことだけど、同じことを繰り返したくないので、文章として残しておくことにした。

激しい雨が降ったあとの空は恐ろしく綺麗で、こういう、一筋縄じゃ行かない色々なものが、世界を作り出しているんだな、と思った。

時が止まっている

1年前、従兄が亡くなった。亡くなった、って書くのもいまだに違和感があるけれど、1年経って戻ってこないのだから、亡くなった、ということなんだろう、と思うしかない。

親戚の中で一番距離が近くて、よく会っていた。色々と話もした。物心ついたときからよく横にいたので、兄のような、友人のような、そういう存在だった。アイドルも好きだったので、趣味も合ったし、悩み事とかもよく話したり話されたりしていた。

突然すぎて、事故なのか、事故じゃないのかもまだ分からないような状況だったのだけど、火葬にだけは立ち会って、それでも理解できなくて、今も、いまだに写真を直視できない。見れば見るほど、どうして、なんで、の気持ちが強すぎて、現実を理解できない。だから、理解しないままでいる。けじめがつけれない。

何度も何度も夢に出てきた。生きているのではないか?と何度も思ったけれど、現実は何も進展していなくて、ずっと去年の7月のままだ。

従兄は、葬式が苦手で、「自分の大切な人が亡くなったら、亡くなったという現実を理解しないまま生きていきたい」と言っていた。今の自分がそうだ。考えたらめちゃくちゃになりそうで、よく分からないけれど居ないし、会えないんだ、と思いながら生きていくことを望んでいる。逃げているけれど、それも一つの選択肢なんだ、と思わせてほしい。

私の好きなアイドル、私立恵比寿中学のメンバーは、亡くなった仲間と常に向き合い続けている。そんな勇気がほしい。他人が亡くなった事実は受け入れられて、その人のために何かしたいとか、生きていた証を残したい、と思えるのに、従兄には思えない。思える段階じゃない。

ずっとこんな気持ちを持ったまま、生きていくのだろうか、って思うけれど、たぶん自分だけではないと思う。目に見えないだけで、世の中に、同じような状況で、同じような気持ちの人はたくさんいる、と思わせてほしい。救いを求めている。

開き直りの境地

昔からなんだけど、人目を気にしすぎることに悩んでいて、自分がどう見られているか、どう思われているのか、ということで頭がいっぱいになり、自分が本来取りたい行動を取れない、ということがあった。細かいことで言うと、人がいっぱいいる場所に自分がいたとして、自分は本当は違う場所に行きたいのだけど、目の前にいる人に「なぜ、今この人は違う場所に行ったのだろう?」などと思われたりしたらどうしよう?と思うと、そういう行動を取れないということがよくあった。一番悩んだのは人の目の前でご飯を食べる行為で、口の開け方とか、食べ方とか、表情まで、かなり気にしていた。最近はそれらは解決されつつあるな、と思ったのは今年の2月の話である。

 こういう思考は、人の前にいると常にあって、職場とか、家に来客が来ているときとか、学校の教室とか、とにかく気にしていたのだけど、病気になってから不思議とそういうことがどうでもよくなった気がする。そもそも人前にいる機会がほとんど減った、ということもあるのだけど、別にどう見られてもいいや、という心境になったのである。発作は、人目を気にしたり、緊張したりする状態だと起こりやすい、というのもあるけれど、ずんずん考えたところで仕方がないし、自分の取りたい行動を取ったらいいのではないか、という思考に行き着いて、人前で自分のやりたい何かを我慢する、という行動をあまり取らなくなった。気にしたところで、相手は何考えてるか分からないし、何も考えていないかもしれないし、そもそも気にして苦しんでいるのは自分だけである。相手も、そこまで我慢されたらかえって気を遣うはずである。

そう思ってからはずいぶんと気が楽になった。気づいてないだけで、ずいぶんと自分を縛って生きてきたんだな〜と思った。見た目がだらしないとか、そういう表面的な意味ではなくて、本当の意味で気が抜けるようになった気がする。

これもある意味病気のおかげなのかなあ、と思うと、なかなか病気を憎めなかったりする。

ロゴを作ってよかったこと

 

ロゴの練習をする、という取り組みを始めて1ヶ月くらいが経った。9作くらいしかアップできてないのだけど、こねくり回してボツにしたのとかも結構あるので、もっと作ってる気もする。ロゴ練習をやり始めて、良かったことが結構あるのでざっと書いてみることにする。

Illustratorの使い方を学べた

今まで使ってはいたのだけど、本格的にガッツリ使ったことがあまりなく、それまでは昔から使っていて得意だったPhotoshopばかり使っていた。正直、Illustratorでロゴをしっかり作った経験もなくて、どうやったらいいのか手探りで始めた。他の人のロゴを見よう見まねで作っていたらどんどんやり方を覚えていって、中学生のころPhotoshopでひたすら画像を作っていたのを思い出した。とりあえずソフトは使い込まないとダメなのだなあ、という当たり前のことをいまさら実感した。勉強のためにたまに使う、ではなくて、毎日なにかしら作ることを目的にして使うとかなり覚えるスピードが速くなる気がする。

文字に興味を持った

デザイナーの人なら当たり前のことなんだろうけど、デザイナーと言ってはおこがましいようなレベルの自分だったので、恥ずかしながら今まであまり文字に興味を持ったことはなかった。というか、見ても「きれいだな〜」とか「自分にはこんなもの作れないな〜」という感想しか出てこなかったのだけど、最近は全く違う感想が出てくる。なんというか、やっとデザイナーの人の視点になれた気がする。本当に恥ずかしいのだけど。ロゴや文字を、ひとつの図形として捉えられるようになった気がする。

Twitterのフォロワーが増えた

これ自体は良いことなのか分からないけど、たぶん良いことなのだと思う。とにかくすごいスピードで増えていて、今まではスパムアカウントがたまに増える、くらいの感じだったのだけど、デザインをしている人とかのアカウントからフォローされることが増えた。自分が作ったロゴをいいねしたりリツイートしてくれる人がいて、その循環でフォロワーが増えている感じ。自分の作ったものを多くの人に見てもらえるのは単純に嬉しいので、これからも頑張っていきたいな、という気持ちです。

ロゴをきっかけに新しい繋がりが生まれた

昨日、「伊根町」のロゴを作っていて、バックに伊根の写真を使ったらもっと雰囲気が出るんだろうな〜と思ったのだけれど、手元に伊根町の写真がないので、知り合いの山根翔さんが撮影された伊根の写真を使用していいか、という連絡を取らせていただいたところ、快諾していただいた上に、ロゴをアニメーションにしていいですか、という話の流れになり、なんとアニメを作っていただけた。

この流れは予想していなかったのでびっくりしたと同時に、ロ、ロゴが動いている…!と、なんとも不思議な感覚になった。自分の描いた絵が動くのってこんな感じなのだろうか。とにかくびっくりした。それをシェアしていただいたところ、さらに多くの人に見ていただけて、本当にありがたいです。あと、もともと地元である京都府北部でなにかやりたい、というぼんやりとした考えはずっとあったので、それを具現化できた感じがしてうれしい。もっと明確な意図を持ってできるとさらに良いと思うので、いろいろと頑張っていきたい。

 


 

最近、人となにかをやる機会が続いていて、こんな自分でも、インターネットと技術さえあれば、人とモノが作れるすごい時代になったのだなあ、としみじみ感じている。それと同時に、体調が良くなればもっと色々とアクティブに動き回れるので悔しいな、と思いつつ、アクティブに動き回ることを目標に体調を整えていきたい、という気持ちにもなっている。とにかく、これを励みに頑張っていきたい!という気持ちです。デザインが好きで、デザインを続けていてよかった…。

素朴な日常の話 の続き

この記事を受けての、

この記事の続きです。

  • 今年の夏も、中学生がわけのわからない奇声を上げたり、歌を歌いながら帰宅していて、それを聞いているのが楽しい。そういうのはだいたい男子が多い気がする。本能のまま生きている、という感じでいい。女子は女子で固まってなにかゴニョゴニョ喋っていて、だいたい大きな声では聞こえない。
  • 犬、だいたいどこに行ってもモテモテで、昨日も美人のお姉さんを2人KOしてしまったようである。最近、小首をかしげる必殺技を覚えて、要所要所で上手く使ってくる。あざとい犬に仕上がってきた。
  • 犬、階段が全部上れるようになり、目を離すといつのまにか上っている。上ったはいいものの下りれなくて「ヒィ〜ン」という悲鳴が2Fから聞こえてきて、それで気づくことが多い。危ないので、犬が怖がるモップを階段の手前に置いて上がれないようにしてある。下りる練習もできるようになるといいのだけど。
  • ドライヤーが故障した。なので、出かける予定がないときはだいたい自然乾燥で乾かしている。自然乾燥、大変時間がかかり、この間は1日経ってもまだ生渇きということがあり、文明の尊さを感じた。毛量が多いので、綺麗に乾かさないとありのままに成長した海藻のようになってしまい、見た目が厳しい。毛量が多いの、邪魔でしかないけど、いつかありがたがる時期が来るのかもしれないと思うと、今は感謝しておきたい。
  • 暑くて寝苦しい日が多い。寝るときはまだいいけれど、起きたときの不快感が半端じゃない。不快感に叫んで起きる感じ。寝入るタイミングではなく、起きるタイミングでエアコンをセットしておけば、少しマシになるのだろうか、という感じがする。
  • 両親の結婚記念日ということで、両親の、娘2人で選んでくれ!という希望で、姉とケーキを選んだ。親の好みを予想して選んだのだけど、だいたい予想は外れて、こちらが食べているケーキを欲しがったりしてくるので難しい。姉と私はだいたいいつも同じものを食べるのだけど(たぶん10年くらい同じもの食べてる)、親は違うものが食べたいようである。結局、家族でケーキをそれぞれつまみ食いする形になる。家族仲的にはよろしいのかもしれないけど、とにかく絵が汚い。しかも、自分は自分の頼んだケーキを食べれればそれでいいのに、半強制的につまみ食い大会に参加させられる形となり、父のケーキをつままされたり、母のケーキをつままされたりする。色々食べれてお得、という考え方は私にはないが、家族仲がいいということでオッケーにしている。