物事の見方

病気になる前、自分はひどく画一的な考え方をしていたように思う。すべての物事が黒か白か、といった塩梅で、頑固なまでにルールめいた考え方を自分に適用させていた。そこから少しでも逸れると、自分がダメ人間のように思えて、上手く行かないとひたすら責めた。変なところで一つの考え方に固執してしまう癖があり、「なんで普通の人なら上手く出来ることが、自分は上手く出来ないんだろう」と毎日考えていた。人と喋るとき、仕事をしているとき、家でちょっとしたことをしているとき、どの時間でも常にその考えが頭の中にあった。ここで出てくる「普通の人」というのにははっきりとしたモデルがない。自分の中で勝手に作り上げた「普通の人」なのだろう、と思う。ずっとその「普通の人」になりたくて仕方がなかった。上手く喋れない、上手く仕事ができない、上手く立ち回れない自分を認めれない。今自分にあるものをすべて捨てて「普通の人」になりたかった。

病気になってから、徐々にその思考が崩れていった。周りを見渡してみたって、「普通の人」なんて、どこにもいないのではないか。幻想のようにすがっていた「普通の人」というモデルが実はどこにもいなかった、ということに気がついた。そして、自分がダメだと思い込んでひたすら捨てようとしていた性格は、「気質」というものに分類できる、ということを知った。そう思ってからは、自分を嫌うことなく、ある程度許容ができるようになった。

最近、1年前、2年前とは考え方が180度変わったな、と思う。一番変わったところで言うと、生き方を貪欲に探すようになった。1年前まではデザイナーになること以外ありえないし、多角的に物事を捉えようとしなかったように思えるけれど、その辺はがらっと変わったんじゃないかなーと思う。昔は自分で見たもの、聞いたもの以外は信じない、と思ってしまう頑固さがあったのだけれど、人の経験談とかを好んで聞きたくなったり、見たくなったりしている。どうやって生きていくか、ということについて、深く考えるようになった。デザインに対しての見方も変わった気がするし、辛いときは本当に自分に対して悪い見方しかできないけれど、長期的に見たらこれは自分が成長するためのひとつの過程だったのではないか、なんて思える。転ばないように、ではなく、転んでもまた起き上がれるために成長する必要があったのではないか。

最近、星野源さんの「地獄でなぜ悪い」という曲を聴いていて、ああこれは他のどんな人にも歌えないな、と思った。その人の経験を描いた詩というものは、その人以外歌えない気がする。そういうものを作っていきたい。自分の経験をクリエイティブに落とし込んで、昇華していけたらな。

嘘で出来た世界が  目の前を染めて広がる
ただ地獄を進む者が 悲しい記憶に勝つ
作り物だ世界は 目の前を染めて広がる
動けない場所から君を 同じ地獄で待つ
同じ地獄で待つ

地獄でなぜ悪い - 星野源 - 歌詞 : 歌ネット